80年前のイスラム教徒の屈辱と恥辱
アメリカのブッシュ政権にイスラム世界に関する情報を与えていると言われている研究者に、バーナード・ルイスというスタンフォード大学名誉教授がいます。中東研究の大立者ですが、その彼が、アメリカの中東政策を支持する内容の著作の中で、オサマ・ビンラディンのジハード(聖戦)のメッセージに言及して、「文章6」の言葉を述べています。オサマ・ビンラディンはさまざまな理由を挙げて、自分たちの政治行動をジハード、つまり聖なる戦争と主張しているのですが、その主張について次のように言っています。
「これを強調するためにビンラディンは、声明文でしばしば歴史的な出来事をとりあげる。もっとも劇的だったのは2001年10月7日のビデオだろう。ビンラディンは、イスラーム教徒たちが「80年以上にわたって」苦しめられてきた「屈辱と恥辱」について語ったのである。それではこの「80年以上」とは何を意味するのだろうか。欧米の多くの消息筋の人々は考えあぐねて、80年前のさまざまな事件をもちだしたのだった。ところがビンラディンが語りかけたイスラーム教徒たちには、それが何を意味していたかすぐにわかったはずだし、その意味をしっかりとうけとめたに違いない。
さて、2001年から80年以上前、すなわち1920年前後に中東で何が起きていただろうか。何がイスラーム教徒に「屈辱と恥辱」を与えたのだろうか。少し歴史を振り返ってみよう。偉大なイスラーム帝国の最後を飾るオスマン朝のスルタンがついに決定的な敗北を喫したのは1918年のことだった。首都のイスタンブルが占領され、スルタンは捕虜になった。そして帝国の旧領土の大半は、勝利を収めたイギリス、フランスの両帝国の間で分割された。肥沃な三日月地帯にあったオスマン帝国のアラブ語地域は三つの新しい国に分けられ、それぞれに新しい国名と国境が定められた」
人工国家のイラク
このときに、現在のパレスチナという地域が設定され、そこに、イスラエルという国家が建設されることになりました。また、レバノン、シリア、イラクという国家も建設されることになります。この1920年まで、政治体としてのイラクは一切存在しておりません。イラクは、このときにできた完全に人工的な国家だったのです。この点については酒井さんが詳しく解説すると思いますけれども、中東世界において現在まで生じているほとんどの政治・社会問題は、この1920年代に端を発していると言っても過言ではありません。それはこのとき、すでに指摘したように、国民国家、主権国家の集合体としての中東が完成したからです。こうして、イスラムが理想とする政治体制と現実の政治体制とが完全に分かたれました。彼のイスラム教徒の屈辱と恥辱を見る目が非常に冷やかなことは別にして、1920年代をイスラム世界における宗教と政治との関係における決定的なターニング・ポイントであるとする、バーナード・ルイスの指摘は正しいと思います。
原理主義と近代主義
両大戦期にイスラムを巡る政治環境は決定的に変わりました。そこから理念と現実との間の溝を一挙に埋めようとして過激な原理主義が芽生えました。これに対して、ソフトランディングによって理念と現実との間の溝に橋を架けようとしたのが近代主義です。
こうした近代主義に代表される国家と社会の近代化は、日本を含む非ヨーロッパ世界の近現代史を理解するために決定的な重要なプロセスです。なぜならば、それなくしては、国家の存続自体が危うかったからです。近代というのはヨーロッパが生み出した概念であり、非ヨーロッパ世界は近代を自ら生み出し得なかったのです。このことはイスラム世界についても同じです。
そのイスラム世界の近現代政治史について、西欧化、民族化、イスラム化の3つの対抗関係として分析するのが日本では一般的です。この3つの方向性について、西洋、民族、イスラムのそれぞれを、理想あるいは理念とする政治モデルと考えるならば問題はありません。しかし、この3つが同じレベルにあり、自由に選べる3つの選択肢とするならば、それは誤っていると思います。
近代化と西欧化
と言うのも、西欧化は通常、広い意味での近代化を含み、それは人や社会が同じ時代に生きる限り、等しく直面せざるを得ない時代状況だからです。近代化は西洋を中心とした権力関係の下では、実質的には西欧化と同じです。西欧化と近代化の2つは、概念の上では区別することができ、ことを明瞭に分析するためには、この区別が不可欠ではありましょう。しかし、西欧化を時代状況ととらえるならば、この区別にさしたる意味はないと思います。つまり、西欧化と近代化を抽象的に区別して、「西欧化がなくても近代化は可能である」と考えることは、1つの夢を語っているようなものでしかないと思います。
近代化を目指す限り、西欧化は時代の流れとして受けざるを得ないのです。それは民族、宗教、文化の違いに関係なく、同時代の人と社会が共通して対処せざるを得ない状況だからです。この点は中東にあっても、中東諸国体制の前であっても後であっても同じです。しかし、違いもありました。中東諸国体制の前の19世紀の政治状況下では、近代化と西欧化とを区別した上で、両者の間に橋を架けようとする考え方、つまり近代主義という考え方が強かったのです。しかし、その後1920年代以降になってからそれは弱くなっていき、原理主義的な傾向がどんどん強まっていきました。
(yaz1966から)